風呂場は、家の中でも湿気と暗がりが残りやすい場所です。昼には何でもない白いタイルも、夜になると、そこだけが古い記憶を含んでいるように見えることがあります。
垢を舐める怪異として語られる垢嘗。その舌の音は、汚れを消すだけでは終わらないのかもしれません。
垢嘗|舌の音がする風呂場
一話目:舌の音がする風呂場

古い借家に移ってから、男は風呂場だけがどうにも好きになれなかった。
昼間は、何の変哲もない場所に見える。白いタイル。小さな浴槽。換気窓の外には、隣家の古い板塀があるだけ。
けれど夜になると、風呂場の奥だけが妙に沈んで見えた。家の中で、そこだけが別の時代に取り残されているようだった。
ある夜、寝ようと布団に入った男の耳に、湿った音が届いた。
ぺたり。
ぬるり。
何かが、濡れた床を這っている。そんな音だった。
水道を閉め忘れたのかもしれない。そう思い、男は廊下へ出た。裸足の裏に、夜の床の冷たさが伝わる。
風呂場の扉の下から、細く冷たい湿気が漏れていた。
扉に手をかけたとき、中から小さな音がした。
ぴちゃ。
舌で、何かを舐める音。
男は息を止めた。すりガラスの向こうで、低い影が動いている。人の子どもほどの背丈。丸まった背中。床へ垂れるほど長いものが、ゆっくり揺れていた。
それは浴槽の縁に顔を寄せていた。
昨日から残していた湯あかを、薄い舌で、ゆっくりと舐め取っている。
ぬるり。
ぴちゃり。
音がするたびに、風呂場の中の空気が少しずつ冷えていく気がした。

男は声を出せなかった。逃げることもできない。ただ、すりガラス越しに、その影が浴槽から床へ、床から壁の隅へと這うように移っていくのを見ていた。
やがて影の動きが止まった。
長い舌が、ゆっくり持ち上がる。
そして、その顔らしきものが、こちらを向いた。
翌朝、風呂場は妙なほどきれいになっていた。
浴槽の縁も、床の隅も、排水口のまわりも、まるで新しい家のように乾いている。昨日まであった水あかの曇りも、黒ずみも、消えていた。
ただひとつ、鏡にだけ、細い跡が残っていた。
上から下へ。
まるで、誰かが舌でなぞったような跡。
それ以来、男は風呂を使ったあと、必ず隅まで洗うようになった。
浴槽の縁も、床の角も、排水口の裏も。
夜中にまた、あの湿った舌の音を聞かずにすむように。
二話目:湯殿の女

播州の山あいに、小さな湯治場があった。
男はそこへ、毎年のように通っていた。腰の痛みに効くと聞いてから、秋の終わりになると数日だけ宿を取り、夜更けにひとりで湯へ入るのを楽しみにしていた。
その湯殿は、古い。
木の戸は湿気で膨らみ、床板は踏むたびに低く鳴った。湯気の奥には石造りの湯船があり、壁の隅には、いくら拭いても落ちない黒ずみが残っている。
ある夜、男が湯から上がろうとしたとき、脱衣所のほうで衣擦れの音がした。
こんな時刻に、誰かいる。
宿の者かと思い声をかけたが、返事はない。
湯気の向こうに、女が立っていた。
白い肌をした、美しい女だった。髪は濡れているように黒く、肩のあたりで静かに揺れていた。薄い着物をまとっていたが、不思議と湯に濡れた様子はない。
女は男を見て、少しだけ微笑んだ。
その顔があまりに整っていたので、男はしばらく声を忘れた。
女は何も言わず、湯船の縁に指を置いた。そこには、湯あかが白く残っている。
女は身をかがめ、そこへ顔を近づけた。
そして、舌を出した。
細く、長い舌だった。
ぬるり。
女は湯船の縁を、ゆっくり舐めた。
湯気の中に、湿った音が広がる。
男はぞっとした。けれど、目をそらせなかった。女の舌は湯船の縁から石の床へ、石の床から男の足もとへ、濡れた跡を追うように近づいてくる。
逃げようとした。
足が、動かない。
女は男の前で顔を上げた。美しい目をしていた。だが、その口元だけが、どこか別のものだった。
女の舌が、男の足首に触れた。
冷たい。
男の声は、湯気に吸われた。

翌朝、宿の者が湯殿を開けると、湯船のそばに白い骨が残っていた。
それは、人ひとり分の骨だった。
血の跡はない。裂かれた肉もない。湯船の縁にも、石の床にも、赤いものは一滴も残っていなかった。
ただ、骨だけが、湯気の消えた湯殿に横たわっていた。
脱衣所には、男の着物と手ぬぐいが、きちんと畳まれていた。
湯船の湯は、いつもより澄んでいる。
石の床には、長く濡れた筋が残っていた。
湯船の縁から骨のそばまで、何かが這ったように続いている。
宿の者はその跡を見て、誰も口をきかなかった。
その日のうちに湯殿は閉められた。
それから、その湯治場では夜更けにひとりで湯へ入る者はいなくなった。
それでも雨の夜だけ、閉めたはずの湯殿から音がするという。
ぬるり。
ぴちゃり。
湯船の縁を、誰かが丁寧に舐めている音が。
怪異の記録
怪異名:垢嘗
話名:舌の音がする風呂場
舞台:古い借家の風呂場、播州の山あいにある湯治場
登場するもの:白いタイルの風呂場、すりガラス、美しい女、長い舌、湯あか、白い骨
読了時間:約4分

垢嘗とは

垢嘗は、風呂場や風呂桶にたまった垢を舐める妖怪として知られています。読みは「あかなめ」で、垢舐、垢ねぶり、あかねぶりなどの名で語られることもあります。
江戸時代の妖怪画集『画図百鬼夜行』では、風呂場のそばで長い舌を出す童子のような姿で描かれています。また、『古今百物語評判』に見える「垢ねぶり」は、古い風呂屋や荒れた屋敷に棲み、塵や垢の気から生じるものとして語られます。
『日東本草図纂』では、嬰児に似た姿で目が丸く、舌が長いものとして紹介される一方、美しい女性の姿で現れる話も伝えられています。そこでは、人の血肉を舐め取り、骸ばかりにしてしまうという、より凄惨な性質を持つ怪異として語られることがあります。
現代では、汚れた風呂場に現れる小さな妖怪、不潔を戒める怪異として語られることが多くあります。ただし、古い文献に見える垢嘗や垢舐の姿はひとつに定まらず、風呂場の垢を舐めるものから、人に害を及ぼすものまで、幅のある怪異として残されています。
この話の怖さ
一話目の怖さは、風呂場という身近な場所にあります。水音や湿気、すりガラスの向こうの影など、日常の中にあるものだけで、知らない存在の気配が近づいてきます。
二話目では、垢を舐めるだけの怪異が、人の身体にまで近づいていきます。美しい女の姿をしていながら、口元と舌だけが異物として浮かび上がる。そのずれが、湯気の中に静かな不安を残します。
この話が残すもの
風呂場をきれいにしておけば、あの音は聞こえないのか。それとも、きれいにし続けることそのものが、すでに怪異に触れた証なのか。
垢嘗は、汚れを舐め取るだけの存在にも見えます。けれど、舌が向かう先が浴槽の縁で止まるとは限りません。湿った音が残った場所では、何が垢で、何が人のものなのか、境目が少しずつ曖昧になっていきます。

よくある質問
垢嘗について教えて?
垢嘗は、風呂場や風呂桶にたまった垢を舐める妖怪として知られています。垢舐、垢ねぶり、あかねぶりとも呼ばれ、江戸時代の妖怪画や怪談本に姿が見えます。今回の怪談では、風呂場に残る湯あかと舌の音を中心に描いています。
垢嘗は危険ですか?
一般には、風呂場の垢を舐める怪異、不潔を戒める妖怪として語られることが多くあります。ただし、『日東本草図纂』などに関連して、美しい女性の姿で現れ、人を骸ばかりにする話が伝えられることもあります。今回の怪談では、その二つの性質を分けて描いています。
垢嘗はどこに現れますか?
垢嘗は、風呂場や風呂桶、古い風呂屋、荒れた屋敷のような、湿気と汚れのたまりやすい場所に結びつけて語られます。今回の話では、古い借家の風呂場と、播州の山あいにある湯治場に現れます。
垢嘗にはどんな特徴がありますか?
垢嘗は、長い舌で垢を舐めることが大きな特徴です。鳥山石燕の図像では童子のような姿で描かれ、『日東本草図纂』では嬰児に似た姿や、美しい女性として現れる話も伝えられています。今回の怪談では、長い舌、湿った音、風呂場に残る跡を印象的な特徴として描いています。
関連する怪異
- 目目連
- のっぺらぼう
- 濡女



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