飛縁魔の怪異譚『紅をさす女』|命ではなく“縁”を奪う女の怪異譚

飛縁魔の怪異譚『紅をさす女』|命ではなく“縁”を奪う女の怪異譚 幻想奇譚

雨の夜、橋のたもとに立つ女には声をかけてはいけない。
古びた傘を差し、白い顔に紅をさしたその女は、命を奪うために現れるのではない。
人がこの世で生きてきた証、家族との記憶、名前、帰る場所――そうした目に見えない縁を、静かにほどいていく。

「紅をさす女」は、飛縁魔という妖怪の怪異譚です。
美しい女に誘われ、少しずつ日常から外れていく商人の姿を通して、誰にも思い出されなくなる恐怖を描いています。

 

紅をさす女

雨の夜だった。

若い商人が店じまいを終え、濡れた石畳の道を急いでいる。
夜更けの町に人影はなく、軒先から落ちる雨音ばかりが、ぽつり、ぽつりと闇に響いていた。

橋のたもとに、ひとりの女が立っている。

古びた傘を差した女だった。
雨脚は細く、けれど絶え間なく降り続いている。
それなのに、女の着物の裾は少しも濡れていない。

顔だけが、闇の中に白く浮かんで見えた。

商人が思わず足を止めると、女は傘の下から静かに顔を上げる。

「少しだけ、送ってくださいませ」

細い声だった。
けれど、不思議と耳の奥に残る声でもあった。

商人は断るつもりでいた。
家には妻がいる。幼い子も待っている。
明日の朝も早く、店の支度をしなければならない。

それなのに、口から出たのは別の言葉だった。

「ええ、よろしゅうございます」

そう答えた瞬間、商人の足はもう橋へ向かっていた。

気づけば、店とも家とも反対の道を歩いている。

女は名を名乗らない。
どこへ行くのかも言わない。
ただ、商人の半歩後ろを、音もなくついてくる。

橋を越え、町外れの細い道へ入ったところで、女がふと立ち止まる。

「今夜は、ここまでで」

商人が振り返ったとき、女の姿はもうなかった。

雨の中に、薄い紅の匂いだけが残っている。

それからだった。

商人は、夜になると橋のことばかり考えるようになる。
雨が降る日はもちろん、雨のない夜でさえ、足は橋のたもとへ向かった。

飛縁魔の怪異譚『紅をさす女』|命ではなく“縁”を奪う女の怪異譚

女は必ずそこにいる。

古びた傘を差し、白い顔で、静かに立っている。

「今夜も、少しだけ」

女はいつもそう言う。

少しだけ。
ほんの少しだけ。

商人はそう思いながら、幾晩も女を送るようになった。

はじめのうちは、誰にも気づかれない。
けれど十日ほど過ぎたころから、家の中で妙なことが起こり始める。

妻が、商人の茶碗を出し忘れた。

「すまないね。どうしたことか」

妻はそう言って笑う。
だが、その笑い方はどこかよそよそしい。

次の日には、子どもが商人の顔を見るなり泣き出した。

「お父っつぁんだよ」

そう言って抱き上げようとすると、子どもは火がついたように泣き叫ぶ。
まるで、知らない男に触れられるのを嫌がっているようだった。

さらに数日たつと、店の帳面から商人の名前が薄くなっていく。

墨で書いたはずの名が、水に濡れたようににじみ、読めなくなっている。

奉公人に尋ねても、首をかしげるばかりだった。

「旦那様のお名前でございますか。……あれ、何と申しましたかね」

商人は笑い飛ばそうとする。
疲れているのだと思う。
寝不足のせいだと、自分に言い聞かせる。

けれど、その夜も橋へ向かった。

橋のたもとには、やはり女がいる。

その晩、女はいつもより近くに立っていた。
傘の端から落ちる雨粒が、ぽたり、ぽたりと石の上に落ちている。

「ずいぶん、やつれましたね」

女はそう言った。

商人の胸の奥が、すっと冷える。

「おまえは、何者だ」

女は答えない。

代わりに、懐から小さな紅の器を取り出した。
細い指で紅を取り、ゆっくりと唇に差していく。

その赤だけが、夜の中で妙に濃く見えた。

血のようではない。
血よりも、もっと深い赤だった。

商人は目をそらせない。

女は唇を閉じ、静かに笑う。

「まだ、お気づきになりませんか」

「何をだ」

「あなたはもう、家へ帰っても、帰れませぬ」

商人は返事ができなかった。

女が傘を少し傾ける。
白い顔が、月明かりの下にあらわになった。

美しい顔だった。
けれど、その目には人を見ている気配がない。

「命など、いりませぬ」

女は言う。

「血も、肉も、たいして欲しくはありません」

商人の喉が、かすかに鳴った。

女は商人の胸元へ、すうっと手を伸ばす。
触れられてもいないのに、商人は胸の奥から何かを引き抜かれるような痛みを覚えた。

その瞬間。

妻の顔が、ぼやける。
子どもの声が、遠のく。
店の暖簾の色が、思い出せなくなる。

商人は慌てて叫んだ。

「やめろ。返してくれ」

女は首をかしげる。

「何をでございますか」

「わしの……わしの名を」

その言葉を口にした瞬間、商人は気づく。

自分の名が、思い出せない。

父に呼ばれた名。
妻に呼ばれた名。
帳面に書いてきた名。
子どもがたどたどしく呼んでくれた名。

そのすべてが、霧のように消えていた。

女は紅を差した唇で微笑む。

「名など、もういりませぬでしょう」

そして、静かに言った。

「あなたの縁は、とうにこちらへ移りました」

翌朝、橋のたもとで一本の傘が見つかった。

若い商人が、いつも使っていた傘である。

不思議なことに、その傘は雨に濡れていない。
一晩中、雨に打たれていたはずなのに、そこだけ雨を避けていたように乾いている。

傘の内側には、紅で細く文字が書かれていた。

飛縁魔。

その日、商人の家では、誰ひとり騒がなかった。

妻も、子も、奉公人も、誰かがいなくなったことに気づかない。
家の中には空いた場所がある。
けれど、その空きが誰のものだったのか、誰にも分からない。

ただ、店の奥に置かれていた古い帳面だけが、ところどころ白く抜けていた。

名前の欄が、ひとつ。
売掛の欄が、ひとつ。
家族の覚え書きが、ひとつ。

墨で書かれていたはずの文字は、まるで最初から何もなかったように消えている。

それから、その橋では雨の夜になると、古びた傘を差した女が立つと言われている。

もし声をかけられても、送ってはいけない。

名を尋ねてもいけない。
自分の名を告げてもいけない。

女が欲しがるのは、命ではない。

あなたをこの世につなぎとめている、すべての縁なのだ。

 

 

飛縁魔とは

飛縁魔は、美しい女の姿で人を惑わせる妖怪として語られる存在です。 この怪異譚では、飛縁魔を「命を奪う妖怪」ではなく、人と人を結ぶ縁そのものを奪う怪異として描いています。

家族に忘れられ、名前を失い、自分が何者だったのかさえ分からなくなる。 その恐怖は、血なまぐさい怪異とは違う、静かで深い怖さを残します。

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