山あいの古い宿にたどり着いた旅人は、美しい女将に迎えられる。通された部屋は静かで落ち着いていたが、ひとつだけ妙なところがあった。天井が、異様に高いのだ。
そして女将は、旅人にこう告げる。「夜中に目が覚めても、決して上を見てはいけません」。その言葉の意味を、旅人は夜半に知ることになる。
この怪異譚は、首が長く伸びる妖怪として知られるろくろ首を題材にした怪談です。人の姿をしたものが、夜の闇の中で本来の姿を見せる恐ろしさを描いています。
上を見てはいけない宿
夜ふけのことだった。
ひとりの旅人が、山あいの古い宿にたどり着いた。
雨に濡れた山道を長く歩き続け、今夜はこのまま野宿になるかもしれないと思いはじめたころ、木々の奥に小さな灯りが見えた。
近づいてみると、そこには古びた一軒の宿があった。
軒は深く沈み、柱は黒く湿っている。
戸口の灯りだけが、雨の闇の中でぼんやりと揺れていた。
旅人が戸を叩くと、しばらくして中から足音が近づいた。
戸が開く。
現れたのは、ひとりの女将だった。
白い肌に、静かな目。
濡れた夜の中に立っているのに、その女だけは少しも湿っていないように見えた。
「お泊まりですか」
声は穏やかだった。
けれど、どこか遠くから聞こえてくるような、不思議な響きがあった。
旅人は安堵し、今夜一晩だけ泊めてほしいと頼んだ。
女将は小さくうなずき、何も聞かずに奥へ案内した。
通された部屋は、奇妙な造りをしていた。
畳も、障子も、床の間も、古い宿らしい落ち着きがある。
それなのに、天井だけが妙に高い。
高すぎるのだ。
行灯の明かりを向けても、上のほうは闇に沈んでよく見えない。
梁があるのか、柱がどこまで伸びているのかさえ分からなかった。
旅人が不思議に思い、首を傾けて見上げようとしたときだった。
女将が静かに言った。
「夜中に目が覚めても、決して上を見てはいけません」
旅人は思わず聞き返した。
「上を、ですか」
女将は答えなかった。
ただ、薄く微笑んだだけだった。
その笑みが妙に冷たく見えて、旅人はそれ以上何も聞けなかった。
やがて女将は、布団を敷き、茶を置き、音もなく部屋を出ていった。
障子が閉まると、宿の中は急に静まり返った。
雨音だけが聞こえる。
山の雨は強く、屋根を叩く音が夜の闇に染み込んでいく。
旅人は疲れきっていた。
気味の悪さはあったものの、横になるとすぐに眠りへ落ちた。
どれほど眠ったころだろう。
妙な音で目を覚ました。
ずる……
ずる……
ずる……
濡れた布を、ゆっくりと畳の上で引きずるような音だった。
旅人は目を開けた。
部屋は暗い。
行灯の火は細くなり、壁にかすかな影だけを揺らしている。
また音がした。
ずる……
ずる……
今度は障子の向こうから聞こえた。
誰かがいる。
旅人は息を殺し、障子のほうを見た。
薄い紙の向こうに、女の影が立っている。
女将だった。
その影は、確かに昼間見た女将の姿をしていた。
細い肩。
長い髪。
すっと伸びた背筋。
しかし、次の瞬間。
旅人の喉が凍った。
女将の首が、ゆっくりと伸びはじめたのだ。
影の中で、首だけが細く長く、上へ上へと昇っていく。
ありえないほど長く。
人のものとは思えないほど静かに。
やがて、その首は天井の闇へ吸い込まれていった。
旅人は布団の中で固まった。
見てはいけない。
女将の言葉が頭の中で響いた。
夜中に目が覚めても、決して上を見てはいけません。
見てはいけない。
見てはいけない。
そう思えば思うほど、目は勝手に天井へ向かおうとする。
そのとき、頭上で音がした。
ずる……
ずる……
ずる……
首が、梁を這っている。
見えないはずなのに、旅人には分かった。
長く伸びた首が、天井の闇の中を、蛇のようにゆっくりと回っている。
柱をつたい、梁を渡り、部屋の上をなぞるように動いている。
ずる……
ずる……
音は少しずつ近づいてきた。
旅人は布団を握りしめた。
叫びたかった。
逃げたかった。
けれど、身体が動かない。
まるで冷たい縄で縛られているようだった。
そして、音が止まった。
旅人の枕元で。
次の瞬間、冷たい息が頬にかかった。
旅人は、ついに見てしまった。
天井の闇から、ひとつの顔が逆さまに垂れていた。
女将の顔だった。
昼間と同じように美しい。
白い肌も、静かな目も、赤い唇も変わらない。
けれど、その目は人を見る目ではなかった。
生きているものを見る目ではない。
獲物を見つけたものの目だった。
女将は逆さまのまま、ゆっくりと微笑んだ。
「見てしまいましたね」
囁くような声だった。
耳元ではなく、頭の奥に直接落ちてくるような声だった。
旅人は叫ぼうとした。
だが、口は開かない。
息だけが喉の奥でひゅうひゅうと鳴った。
女将の顔が近づいてくる。
長い首が、闇の中から音もなく伸びてくる。
白い息が頬に触れた。
赤い唇が耳元まで寄る。
そこで、旅人の意識は途切れた。
翌朝。
宿には、何事もなかったように朝日が差していた。
雨は上がり、山の木々から雫が落ちている。
部屋の畳はきれいに整えられ、布団にも乱れはなかった。
ただ、旅人の姿だけが消えていた。
窓は閉まっている。
障子も破れていない。
戸口の土間にも、外へ出た足跡はない。
残っていたのは、入口にそろえられた旅人の履物だけだった。
その宿に泊まった者の中には、夜中に奇妙な音を聞いた者がいるという。
ずる……
ずる……
ずる……
濡れた何かを、天井の上で引きずるような音。
そして、部屋の暗がりから、冷たい息が降りてくる。
ろくろ首は、人の生気や血を吸うとも言われている。
あの旅人がどこへ消えたのか。
それを知る者は、誰もいない。
ただ、その山あいの古い宿では、今も女将が客を迎えるという。

白い肌。
静かな目。
人離れした美しい微笑み。
そして、部屋へ案内したあと、必ずこう告げる。
「夜中に目が覚めても、決して上を見てはいけません」
その夜もまた、天井の高い部屋から音がする。
ずる……
ずる……
ずる……
ろくろ首とは
ろくろ首は、夜になると首が異様に長く伸びるとされる妖怪です。昼間は普通の人間のように見えることもあり、その正体に気づかないまま近づいてしまう怖さがあります。
眠ってはいけない夜、見てはいけない天井、そして静かに近づいてくる不気味な音。古い宿に残る恐ろしい一夜の物語です。


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