嵯峨の山ぎわにある静かな山荘には、唐から渡ったものだという黒猫が飼われていました。
人の声を聞き分けるように振る舞うその猫は、いつしか秘蔵の守り刀が納められた部屋の前に座るようになります。月の出る夜、閉ざされた箱の蓋が、かたりと鳴りました。
猫又|守り刀をくわえた猫

嵯峨の山ぎわに、静かな山荘がありました。
そこには、唐から渡ったものだという猫が一匹、飼われていました。毛並みは黒く、目は薄い金色で、人の声を聞き分けるように振る舞ったといいます。
その家には、古くから秘蔵の守り刀がありました。
短い刀でしたが、代々、人目につかぬ場所に納められ、むやみに抜いてはならぬものとされていました。家の者はそれを守り刀と呼び、年に一度だけ、灯明をあげて拝んでいたそうです。
猫は、いつもその部屋の近くにいました。
戸の前に座り、尾を体に巻きつけて、じっと動かない。追い払っても、気づけばまた戻っている。
初めは、暖かい場所を好んでいるのだろうと思われていました。
けれど、ある夜から、猫の尾が妙に長く見えるようになりました。
灯りの下で揺れる影が、一本ではないのです。
廊下に落ちた猫の影だけが、ふたつに分かれている。猫自身は何食わぬ顔で座っているのに、影の尾だけが、畳の上を探るように動いていました。
家の若い僧がそれに気づき、猫の名を呼びました。
猫は振り向きませんでした。
ただ、閉ざされた部屋のほうへ、ゆっくり顔を向けたのです。
その晩、山荘の奥で、かたり、と小さな音がしました。
風の音ではありません。
誰かが箱の蓋を開けるような、乾いた音でした。
僧が灯明を手に奥の部屋へ向かうと、守り刀を納めた箱の蓋が開いていました。
部屋の中に、人はいません。
ただ、猫がいました。
猫は、守り刀を口にくわえていました。
小さな体には不釣り合いな重さのはずなのに、首は少しも下がっていません。金色の目だけが、灯明の火を映して、濡れたように光っています。
僧は思わず叫びました。
その声で、家の者たちが起き出しました。
猫は逃げました。
廊下を走るのではありません。音もなく、滑るように進みました。障子の前で一度だけ振り返ると、口元にくわえた刀の鞘が、月明かりを受けて白く光りました。
そのとき、誰かが見たと言います。
猫の尾が、二つに分かれていたのを。
家の者たちは庭へ飛び出しました。
猫は山のほうへ向かっていました。小さな黒い影が、石段を上り、草を分け、竹林の暗がりへ入っていく。
男たちは提灯を掲げ、名を呼びながら追いました。
けれど、不思議なことに、追えば追うほど猫の姿は近づきませんでした。
すぐそこにいるようで、決して手が届かない。
二つに分かれた尾だけが、闇の中でちらり、ちらりと揺れていました。
やがて、竹林の奥で提灯の火が一つ消えました。
続いて、もう一つ。
風はありませんでした。
それでも火は順に消えていき、最後に残った者が見たのは、山道の先に座る猫の背中でした。
猫は守り刀を足もとに置いていました。
取り返せる。
そう思って一歩近づいたとき、猫が振り返りました。
その顔は、猫のものではなかったそうです。
人の顔に似ていたのではありません。獣の顔でもない。ただ、長く人のそばにいて、人の心の弱いところだけを覚えたものの顔だったといいます。
その者は腰を抜かし、声も出せませんでした。
気がつくと、夜が明けていました。
竹林の中に、守り刀はありません。
猫の姿もありませんでした。
山荘へ戻ると、守り刀を納めていた箱だけが、開いたまま置かれていました。
中には、黒い毛が数本。
その日から、家の者はあの猫を猫とは呼ばなくなりました。
魔物が猫に化けていたのだ、と言う者もいました。
長く飼った猫が、年を経て別のものになったのだ、と言う者もいました。
ただ、守り刀は二度と戻りませんでした。
嵯峨の山に月が出る夜、竹林の奥で、鞘が石に触れるような音がすることがあるそうです。
かたり。
かたり。
その音のあとに猫の声が聞こえても、追ってはいけません。
名を呼んだ者から、山の暗がりへ連れていかれる。
そうして夜明けには、開いた箱だけが残るのだといいます。
怪異の記録
怪異名:猫又
話名:守り刀をくわえた猫
舞台:嵯峨の山荘、竹林、夜の山道
登場するもの:唐猫、秘蔵の守り刀、開いた箱、二つに分かれた尾
読了時間:約3分

猫又とは

猫又は、日本の民間伝承や古典に見られる猫の怪異です。大きく分けると、山中にすむ獣として語られるものと、人家で飼われていた猫が年を経て変化するものがあります。
『徒然草』には、奥山に猫またというものがいて人を食うと語られる話があり、さらに近くでも年老いた猫が変化して人を害するという噂が語られます。『古今著聞集』には、観教法印の嵯峨の山荘で飼われていた唐猫が秘蔵の守り刀をくわえて逃げ、姿をくらました話が見えます。この話では、猫そのものというより、魔物が猫に化けていたものとして扱われています。
江戸時代以降は、長く飼われた猫が老いて尾を二つに分け、猫又になるという考えが広まりました。尾が二股に分かれる姿、人を惑わす性質、山へ移り住むという語り方などが、猫又の代表的な特徴として紹介されることがあります。
この話の怖さ

この怪談の怖さは、身近な飼い猫が、いつの間にか家の守りに触れているところにあります。人に慣れた猫の姿をしていながら、見ているものは餌でも人の手でもなく、家の奥に隠された守り刀です。
猫が走り去る場面にも、派手な怪異は起きません。ただ、追っても追いつけず、提灯の火がひとつずつ消えていく。姿よりも、届かない距離と消えていく灯りが、不安を残します。
この話が残すもの
守り刀は、最後まで戻りません。猫が何者だったのか、なぜ刀を持ち去ったのかも、はっきりとは語られないままです。
魔物が猫に化けていたのか、飼い猫が年を経て別のものになったのか。残されたのは開いた箱と、黒い毛だけです。山の奥から聞こえる、鞘が石に触れるような音は、その答えをまだ隠しているのかもしれません。

よくある質問
猫又について教えて?
猫又は、猫にまつわる日本の怪異です。山中にすむ獣として語られるものと、飼い猫が年を経て変化するものがあります。今回の怪談では、『古今著聞集』に見える唐猫と守り刀の話をもとに、嵯峨の山荘から猫が消える物語として描いています。
猫又は危険ですか?
伝承では、猫又は人を食う、さらう、人を惑わすといった存在として語られることがあります。ただし、すべての話で同じ性質を持つわけではありません。今回の怪談では、猫又は守り刀を持ち去り、人を山の奥へ誘うような怪異として描かれています。
猫又はどこに現れますか?
猫又は、山中にすむものとして語られる一方、人家で飼われた猫が変化するものとしても語られます。今回の怪談では、嵯峨の山荘と、その奥に続く竹林や山道が舞台になっています。
猫又にはどんな特徴がありますか?
猫又は、年を経た猫が変化したもの、または山にすむ猫の怪異として語られます。尾が二つに分かれる姿、人を惑わす性質、山へ姿を消す印象などが特徴として知られています。今回の話では、守り刀をくわえて消える黒猫として描いています。
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- 火車
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