鵺|黒雲に呼ばれる【日本の妖怪の話】

鵺|黒雲に呼ばれる【日本の妖怪の話】 妖怪・もののけの話

鵺|黒雲に呼ばれる

夜の空に浮かぶ雲は、ふつう、風に流されていきます。けれど、ときには、どこにも流れず、ただ一つの場所にだけ居座るものがあるのかもしれません。

京の町に現れた黒雲は、ただ暗いだけの雲ではありませんでした。そこには声があり、気配があり、そして、誰かの名を探しているような静かな執着がありました。

 

鵺|黒雲に呼ばれる

鵺|黒雲に呼ばれる

京の町に、夜ごと奇妙な雲が出るようになった。

雨を降らせる雲ではない。

風が吹いても流れず、月が出ても薄れない。

ただ御所の上にだけ、墨をこぼしたように重く垂れこめていた。

その雲が現れる晩には、決まって声が聞こえた。

「ひょう……ひょう……」

鳥の声に似ていた。

けれど、鳥にしては悲しすぎる。

人の泣き声にも聞こえた。

けれど、人にしては遠すぎた。

夜番をしていた若い男は、兵衛と呼ばれていた。

兵衛は初めのうち、その声を聞かないふりをしていた。

町の者も、あれは山鳥の声だと言った。

不吉な声だと口にすれば、本当に不吉なものを呼び寄せてしまいそうだったからだ。

ただ、古くから京には、ひとつの言い伝えがあった。

夜の空から名を呼ばれても、返事をしてはならない。

声の主が、人とは限らないからだ。

三日目の夜。

兵衛は気づいてしまった。

声が、少しずつ近づいている。

はじめは御所の奥から聞こえていた声が、その夜は屋根の上から聞こえた。

屋根の上にあった声は、やがて兵衛の背後へまわりこむように響いた。

「ひょう……ひょう……」

兵衛は振り返らなかった。

振り返ってはいけない。

理由はわからない。

ただ、振り返った瞬間、その声の主が自分を見つけるような気がした。

そのとき、雲の底がゆっくりと揺れた。

黒い雲の中から、何かが垂れ下がっている。

蛇の尾のようなものが、月のない空を静かになぞっていた。

その奥に、猿のような顔が見えた。

さらにその下で、虎の爪に似たものが、屋根瓦を音もなくつかんでいる。

それは雲の中に潜んでいるというより、雲と一体になって夜空に張りついているようだった。

黒雲ではない。

夜の闇そのものに爪を立てているものだった。

兵衛は息を止めた。

声を出してはいけない。

名前を呼ばれても、返事をしてはいけない。

そう思ったとき、あの細い鳴き声が、ふいに形を変えた。

「……ひょう」

「……ひょう」

「……兵衛」

膝から力が抜けた。

町に住んでいれば、自分の名を知る者はいくらでもいる。

けれど、あの雲の中にいるものが、自分の名を知っている。

それだけで、喉の奥が冷たくなった。

兵衛は返事をしなかった。

口を押さえ、目を伏せ、ただ夜明けを待った。

やがて東の空が白みはじめると、黒雲は少しずつ薄れていった。

猿の顔も。

虎の爪も。

蛇の尾も。

霧のように消えていった。

町には何も残っていなかった。

屋根瓦は壊れていない。

血の跡も、足跡もない。

ただ、兵衛の耳の奥にだけ、あの声が残った。

「ひょう……ひょう……」

それから兵衛は、夜になると眠れなくなった。

鳥の声を聞くたびに目を覚まし、風が屋根を鳴らすたびに顔を青くした。

町の者は言った。

「あれは、ただの夜鳥だ」

「気のせいだ」

「もう黒雲も出ていない」

けれど兵衛には、わかっていた。

あれは鳴いていたのではない。

誰の名を呼ぶか、探していたのだ。

そしてある晩。

兵衛の家の上にだけ、黒い雲がかかった。

風のない夜だった。

町じゅうが寝静まったころ、屋根の上から細い声が聞こえた。

「ひょう……ひょう……」

兵衛は布団の中で、目を開けたまま動けなかった。

声は、もう遠くにはない。

天井のすぐ上で、何かの爪が、ゆっくりと瓦をなでている。

かり。

かり。

やがて、細い声がした。

「……兵衛」

兵衛は、返事をしなかった。

だがその夜から、京の空に黒雲が出るたび、別の名が呼ばれるようになった。

 

怪異の記録

怪異名:

話名:黒雲に呼ばれる

舞台:平安の京、御所の周辺と兵衛の家

登場するもの:兵衛、黒雲、御所、名を呼ぶ声、屋根の上の爪

読了時間:約3分

 

鵺とは

鵺とは

鵺は、日本の古い文献や伝承に登場する怪異です。もともとは鳥の名として見られ、トラツグミを指す呼び名として扱われることがあります。のちに怪鳥や妖怪の名としても知られるようになり、特に『平家物語』に語られる源頼政の鵺退治が有名です。

その物語では、夜ごと宮中に現れて人々を悩ませる異形の存在として描かれ、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎のような姿だとされます。資料によって細部に違いが見られることもありますが、正体のつかみにくい不吉な怪異として受け止められてきました。京都には鵺池や鵺大明神など、伝承に結びついた地名や史跡も残っています。

 

この話の怖さ

この話の怖さは、鵺が最初から姿をはっきり見せないところにあります。黒雲と声だけが先に現れ、その声が少しずつ近づいてくる。それだけで、何かがこちらへ寄ってくる感覚が静かに積み重なっていきます。

さらに不気味なのは、鳴き声だと思っていたものが、いつのまにか兵衛の名になっていることです。怪異がただそこにいるのではなく、こちらを知り、選び、呼びかけてくる。その気配が、最後には家の天井のすぐ上まで来ているところに、この話の深い不安があります。

 

この話が残すもの

兵衛がその夜にどうなったのかは、最後まではっきり描かれていません。けれど、返事をしなかったから終わったのではなく、ただ次の夜まで持ちこたえただけかもしれない。そんな思いが残ります。

鵺は、姿よりも気配のほうが先に人を追いつめる怪異として、この話の中にあります。名を呼ばれること、気づかれること、それ自体が境目になっているようで、読み終えたあとも、夜の物音に耳を澄ませたくなる余韻があります。

 

よくある質問

鵺について教えて?

鵺は、日本の伝承に現れる怪異で、古くは鳥の名、のちには妖怪や怪鳥として知られるようになりました。とくに源頼政が退治した鵺の話が有名です。今回の話では、その伝承をもとに、黒雲の中から名を呼ぶ怪異として描いています。

鵺は危険ですか?

伝承では、不吉な声や異形の姿で人々を悩ませる存在として語られることがあります。今回の怪談でも、直接襲うというより、名を呼び、近づき、相手の心を追いつめる危うさを持つ怪異として描かれています。

鵺はどこに現れますか?

有名な伝承では、平安京の宮中や御所の上空に現れた怪異として知られています。京都には鵺池など、鵺退治にまつわる場所も伝わっています。この話では、御所の上に現れたあと、兵衛の家の上にまで黒雲が現れます。

鵺にはどんな特徴がありますか?

よく知られる伝承では、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎のような姿だとされます。黒雲とともに現れ、不気味な声を発する点も印象的です。今回の話でも、その鳴き声と異形の姿をもとに、不穏な気配を強めています。

 

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