山あいの小さな村に、食べることを惜しむ男がいました。人の腹を満たすことさえ損だと思うような男の家に、ある夕暮れ、ひとりの女が訪れます。
女は、食べものをほとんどいらないと言いました。男は喜びます。けれど、米びつの中身だけは、誰にも見られぬまま少しずつ減っていきました。
ふたくち女|食わぬ女房

昔、ある山あいの村に、ひどく倹約にこだわる男がいた。
倹約家といえば聞こえはよいが、村の者はみな知っていた。男は、ただの吝嗇家だった。米を一粒こぼしただけで顔をしかめ、薪を一本多く燃やしただけで舌打ちをする。嫁をもらえば飯代がかかると言い、長いあいだ一人で暮らしていた。
ある夜、男は酒の席で、村人たちにこう言った。
「飯を食わぬ女なら、嫁にしてもよい」
村人たちは笑った。そんな女がいるものか、と。
ところが、その三日後の夕暮れ。男の家の前に、一人の女が立っていた。
白い肌に、長い黒髪。物静かで、目を伏せたまま、女は言った。
「わたくしは、食べものをほとんどいただきません。どうか、ここに置いてくださいませ」
男は心の中で喜んだ。飯を食わぬ女房なら、これほど都合のよいことはない。
こうして女は、男の家に入った。
女はよく働いた。朝早くから水を汲み、畑に出て、家の中を隅々まで清める。しかも、本当に食事をしなかった。
男が飯を食べているあいだも、女は囲炉裏のそばに座り、静かに微笑んでいるだけだった。
「おまえは食わなくてよいのか」
男がたずねると、女は首を横に振った。
「はい。わたくしは、それで足りております」
男はますます気に入った。これほど金のかからぬ女房はいない。
ところが、しばらくすると、おかしなことが起こり始めた。
米びつの米が、減る。炊いておいた飯も、いつの間にかなくなっている。
男は毎日、自分の食べる分をきっちり量っていた。女は食べていない。客も来ていない。それなのに、米だけが目に見えて減っていく。
最初は鼠のせいだと思った。だが、米びつのまわりに足跡はない。袋に穴も開いていない。
ある晩、男は女に聞いた。
「おまえ、隠れて飯を食っているのではないか」
女は静かに笑った。
「いいえ。わたくしは、何もいただいておりません」
その笑みが、男には少し気味悪く見えた。
翌朝、男は仕事へ行くふりをして家を出た。そして、しばらく山道を歩いたあと、足音を殺して戻ってきた。
家の中は静まり返っている。
男は戸の隙間から、そっと中をのぞいた。
女は囲炉裏の前に座っていた。いつものように背筋を伸ばし、黙っている。
しばらくすると、女はゆっくりと髪をほどいた。
長い黒髪が、背中に流れる。
その奥で、何かが動いた。
女の後頭部に、黒い裂け目があった。いや、裂け目ではない。口だった。
唇のような肉がめくれ、白い歯がのぞく。舌のようなものが、ぬらりと動いた。
男は声を上げそうになり、あわてて自分の口を押さえた。
女の髪が、まるで生き物のように動き始める。何本もの髪が束になり、米びつのふたを開けた。そして、飯をつかむと、後頭部の口へ運んだ。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
後ろの口が、飯を食っている。
正面の女は、何もなかったように静かに座っていた。ただ、後ろの口だけが、腹をすかせた獣のように飯をむさぼっている。
やがて、その口が低くつぶやいた。
「足りぬ」
男の背筋が冷えた。
「もっと、食わせろ」
女の首が、ゆっくりとこちらへ傾いた。
男は逃げようとした。だが、足がすくんで動かない。
女が振り返る。
正面の顔は、いつもと同じ美しい顔だった。けれど、笑っていなかった。
「見ましたね」
男は戸を開け放ち、転がるように逃げ出した。
背後から女の声が聞こえる。
「あなたが望んだのでしょう。飯を食わぬ女房を」
男は山道を走った。息が切れても、足を止めなかった。
村へ戻り、村人たちを連れて家に引き返すと、女の姿は消えていた。
囲炉裏のそばには、空になった米びつだけが残されている。
それからというもの、男の家では毎晩、奇妙な音がしたという。
誰もいないはずの台所から、
ぐちゃり。
ぐちゃり。
何かが飯を噛むような音がする。
男は日に日に痩せていった。食べても、食べても、腹が満たされないと言う。まるで、あの女の飢えだけが、男の中に残されたかのようだった。
そして、ある朝。
男は家の中で倒れていた。
その後頭部には、深く裂けたような傷があった。まるでそこに、もう一つの口が開こうとしているように。
村人たちは、それを見て震え上がった。
あの女は、ただの妖怪だったのか。それとも、男の欲が呼び寄せたものだったのか。
今でも、その村ではこう言い伝えられている。
食わぬ者など、この世にはおらぬ。誰かの腹を満たさずに済ませようとすれば、その飢えは、別の口を開かせる。
そして夜ふけ、米びつのふたが勝手に開く家には、髪の長い女が、背を向けて座っているという。
怪異の記録
怪異名:ふたくち女
話名:食わぬ女房
舞台:山あいの村、男の家、囲炉裏のある台所
登場するもの:飯を食わぬ女房、米びつ、後頭部の口、動く黒髪、満たされない飢え
読了時間:約4分
ふたくち女とは

ふたくち女は、「二口女」とも書かれる日本の妖怪です。一般には、ふだんは普通の女性に見えながら、後頭部にもう一つの口を持つ存在として知られています。江戸時代の妖怪絵巻・奇談集『絵本百物語』にも見られ、後頭部の口が食べものを求める姿で語られることがあります。
よく知られる型では、女の後頭部にできた口が食べものを欲しがり、長い髪が手のように動いて食べものを運ぶとされます。継子への冷たい扱いや、飢え、強欲、家庭内の罪悪感と結びつけて語られることもあり、ただ食べる妖怪というより、人の内側に隠された飢えや業を映す怪異として紹介されることがあります。
今回の「食わぬ女房」は、飯を食べない女を望んだ男のもとに、ふたくち女が現れるという創作怪談です。伝承上の特徴である「後頭部の口」「食べものを求める口」「髪が食べものを運ぶ」という要素をもとにしつつ、男の吝嗇と飢えが怪異を呼ぶ話として構成しています。
この話の怖さ
この話の怖さは、最初から怪物が現れるところではなく、男の願いそのものが少しずつ形を変えて返ってくるところにあります。飯を食わぬ女房を望んだ男は、たしかにその通りの女を迎えます。けれど、食べないはずの女のそばで、米だけが静かに減っていく。
後頭部の口は、隠された飢えの姿です。正面の顔は美しく穏やかなままなのに、背中側では別の口が飯をむさぼっている。その二重の姿が、家の中の静けさをかえって不気味にしています。
男が最後に満たされない腹を抱えるところも、怪異の余韻を強く残します。女が消えたあとも、飢えだけが家に残ったのか。あるいは、男の中に最初からあったものが、ようやく口を開いたのか。答えははっきりしません。
この話が残すもの
「食わぬ女房」は、欲の小ささが怪異を招く話です。米を惜しみ、薪を惜しみ、人ひとりの食事さえ惜しんだ男は、やがて自分自身の腹を満たせなくなります。
ふたくち女のもう一つの口は、外から来た妖怪のしるしにも見えます。しかし同時に、誰かの飢えを見ないふりをしたときに生まれる、もう一つの声のようにも感じられます。
夜ふけに米びつのふたが開く音がするなら、そこにいるのは女だけではないのかもしれません。満たされなかったものは、どこかで口を開く。そんな気配が、話の奥に残ります。
よくある質問
ふたくち女について教えて?
ふたくち女は、「二口女」とも表記される日本の妖怪です。一般には、普通の女性のように見えながら、後頭部にもう一つの口を持つ存在として語られます。今回の話では、飯を食べない女房として男の家に入り、隠された口で食べものを求める怪異として描いています。
ふたくち女は危険ですか?
伝承では、後頭部の口が食べものを求める怪異として語られることが多く、必ずしも人を直接襲う妖怪としてだけ扱われるわけではありません。ただし、飢えや怨み、罪悪感と結びつくことがあり、今回の怪談では男の欲を静かに侵していく危うい存在として描いています。
ふたくち女はどこに現れますか?
ふたくち女は、家や家庭内の因縁と結びつけて語られることがあります。今回の話では、山あいの村にある男の家に現れます。囲炉裏、米びつ、台所といった暮らしの場が、そのまま怪異の舞台になっています。
ふたくち女にはどんな特徴がありますか?
代表的な特徴は、後頭部にもう一つの口があることです。その口が食べものを欲しがり、長い髪が食べものを運ぶ姿で紹介されることもあります。今回の話でも、黒髪が米びつを開け、後頭部の口へ飯を運ぶ場面に、その特徴を反映しています。
関連する怪異
- ろくろ首
- 口裂け女
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