古い家には、使われなくなった部屋がひとつ残っていることがあります。誰も入らず、誰も眠らず、それでも夜になると、そこに何かの気配だけが満ちてくる。
奥座敷から聞こえる小さな毬の音。それは怖ろしいものではなく、けれど無視してはいけない、家の奥に住む幼いものの合図だったのかもしれません。
座敷わらし|奥座敷の赤い毬

その家のいちばん奥には、長く使われていない座敷がありました。
襖はいつも閉じられたまま。畳は日に焼けて色を失い、床の間には、何が描かれているのか分からないほど褪せた掛け軸がかかっていました。家の者は誰も、その部屋に長く留まろうとはしません。
けれど夜が深くなると、奥座敷のほうから音が聞こえるのです。
とん、とん、とん。
小さな毬を、子どもがついているような音でした。
最初は鼠か何かだろうと、誰もがそう思っていました。けれど、音はいつも同じ頃に始まり、同じ間を置いて続きます。廊下に人が立つと、ぴたりと止む。離れると、また、とん、とん、と鳴りだしました。
ある晩、若い嫁が喉の渇きで目を覚ましました。
台所で水を飲み、部屋へ戻ろうとしたときです。奥座敷のほうから、いつもより近く、毬の音が聞こえました。
とん。
とん。
廊下の先を見ると、閉じていたはずの襖が、指一本ぶんだけ開いています。
嫁は足を止めました。暗い隙間の奥で、何か赤いものが揺れています。やがて、それはころりと廊下へ転がり出ました。
赤い毬でした。
古いものなのに、不思議と色だけは鮮やかで、灯りもない廊下で、そこだけ小さく浮いて見えました。
嫁が息をひそめていると、襖の隙間から小さな手が伸びました。幼い子どもの手でした。細い指が、毬を追うように襖の敷居をなぞっています。
けれど、顔は見えません。
声もありません。
嫁は怖さよりも先に、なぜか胸が詰まりました。奥座敷の暗がりで、ひとり毬をついている。そんな姿が、見えないまま目に浮かんだのです。
翌朝、嫁は奥座敷の前に、小さな菓子をひとつ置きました。
家の者には何も言いません。ただ、襖の前に菓子を置き、そっと手を合わせました。
その夜も、毬の音は聞こえました。
とん、とん、とん。
けれど以前のような硬い音ではありません。畳の上で、ゆっくり弾むような、どこか嬉しそうな音でした。
それからというもの、嫁は夜になる前に菓子を置くようになりました。饅頭の日もあれば、干菓子の日もあります。何も言わず、ただ奥座敷の前へ置いておくのです。
不思議なことに、その家の商いは少しずつ上向いていきました。客足が戻り、途絶えていた取引もつながり、古く傾きかけていた家に、また人の声が増えていきました。
家の者たちも、やがて襖の前の菓子に気づきました。けれど、誰もそれを片づけようとはしません。
夜になると、奥座敷から小さな毬の音がする。
とん、とん、とん。
その音が聞こえるあいだ、この家は守られているような気がしたのです。
ただ一度だけ、嫁が里帰りで家を空け、菓子を置き忘れた夜がありました。
その晩、奥座敷から聞こえた毬の音は、いつもより低く、長く続いたそうです。
とん。
とん。
とん。
まるで、誰かが帰ってくるのを、暗い部屋の中で待っているように。
翌朝、襖の前には赤い毬が置かれていました。
そのそばに、畳の上を小さな指でなぞったような跡が残っていたといいます。
嫁が帰ってから、また菓子を置くと、その夜の毬の音は、少しだけ軽くなりました。
それでも家の者は、奥座敷の襖を開けません。
赤い毬のことも、誰も口にはしません。
夜が深まるころ、ときどき廊下の奥から、やわらかな音が聞こえるそうです。
とん、とん、とん。
子どもが、ひとりで遊んでいる音。
怪異の記録
怪異名:座敷わらし
話名:奥座敷の赤い毬
舞台:古い家の奥座敷
登場するもの:赤い毬、小さな手、菓子、閉じた襖
読了時間:約3分
座敷わらしとは
座敷わらしは、主に東北地方、とくに岩手県を中心に語られてきた家の怪異・妖怪として知られています。座敷や蔵など、家の内側に現れる幼い子どものような存在とされ、姿を見た者や住みつかれた家に福をもたらすと語られることがあります。
伝承では、座敷わらしがいる家は栄え、いなくなると家運が傾くといわれることがあります。一方で、夜中に足音がしたり、子どもの気配がしたり、家の中で小さな悪戯をする存在として語られる例もあります。地域によっては座敷童子、ザシキワラシ、座敷オボコなどの名で紹介されることもあり、姿や性質にはさまざまな違いが見られます。
今回の話では、座敷わらしを「奥座敷にひっそりと住み、菓子を供えられることで家に福をもたらす存在」として描いています。赤い毬や菓子を待つ様子は創作上の描写ですが、家に棲む子どもの姿の怪異、福をもたらす存在という点は、座敷わらしの伝承と響き合う要素です。
この話の怖さ
この話の怖さは、襖の向こうに何がいるのかを最後まで見せきらないところにあります。赤い毬が転がり、小さな手が伸びる。けれど顔は見えず、声も聞こえません。その余白が、奥座敷の暗がりを広く感じさせます。
同時に、座敷わらしは人を傷つけるものとしては描かれていません。毬の音は不気味でありながら、どこか寂しげです。菓子を置くことで音がやわらかくなり、家に福が戻ってくる。その優しさの中に、忘れてはいけないものを抱えた怪異の気配が残ります。
この話が残すもの
奥座敷の襖は、最後まで開けられません。赤い毬をついている子どもが本当に座敷わらしなのか、なぜその家にいるのかも、はっきりとは語られないままです。
ただ、家の者たちは毬の音を聞き、菓子を置き続けます。見えないものを追い払うのではなく、そこにいるものとして扱う。その小さな習慣が、家を守る約束のように残っていきます。
よくある質問
座敷わらしについて教えて?
座敷わらしは、主に東北地方、とくに岩手県を中心に語られる家の怪異・妖怪です。座敷や蔵に現れる子どものような存在とされ、いる家は栄える、見た者に幸運が訪れると語られることがあります。今回の話では、奥座敷で赤い毬をつく小さな存在として描いています。
座敷わらしはどこに現れますか?
伝承では、座敷わらしは座敷や蔵など、家の内側に現れる存在として語られることがあります。今回の話では、古い家の奥座敷に現れ、夜になると赤い毬をつく音だけを聞かせます。
座敷わらしにはどんな特徴がありますか?
座敷わらしは、幼い子どもの姿や気配として語られることが多く、家に福をもたらす存在とされることがあります。地域によって姿や呼び名は異なり、足音、笑い声、悪戯などで存在を知らせる話も見られます。今回の話では、赤い毬の音と、菓子を待つような振る舞いが印象的な特徴になっています。
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