雨の夜、町はずれの坂道を通ると、灯りは思ったより遠く見えるものです。提灯の火があっても、足もとの石畳ばかりが濡れて光り、先に立つ人の顔まではよく見えません。
その晩、男が出会った女も、はじめはただ泣いているように見えました。けれど、声をかけたあとで見えたものは、人の顔と呼べるものではありませんでした。
のっぺらぼう|灯りの下の白い顔

雨の降る晩、男は町はずれの坂道を急いでいました。
道は細く、両側の家もまばらです。提灯の火は風に揺れ、濡れた石畳の上に、頼りない輪を落としていました。雨粒が紙に当たるたび、灯りが小さく震えます。
坂の途中に、ひとりの女が立っていました。
薄い着物の肩を震わせ、袖で顔を隠しています。傘もなく、髪の先から雨がしたたり、足もとの水たまりに細い波紋を作っていました。
男は足を止めました。こんな夜に、女がひとりでいるのは妙です。けれど見過ごすには、あまりに近い場所に立っている。
「どうなさいました」
声をかけると、女の肩の震えが止まりました。
雨の音だけが残ります。
女は袖を下ろさないまま、ゆっくりとこちらへ顔を向けました。濡れた髪が頬に張りついているように見えます。男は、もう一度声をかけようとしました。
そのとき、女が袖を離しました。
顔がありませんでした。
目も、鼻も、口もない。白く平らな面だけが、提灯の明かりをぼんやり受けていました。雨の粒がその上をすべり落ちても、そこには表情というものが何も浮かびません。
男は息をのむこともできませんでした。
足が勝手に動き、坂を駆け下ります。提灯の火が大きく揺れ、石畳に影が跳ねました。背後から足音は聞こえません。ただ、雨の中で誰かが袖をこするような音だけが、しばらく耳のそばに残っていました。
坂を下りきったところに、茶屋の灯りが見えました。
男は戸を押し開け、転がるように中へ入ります。土間には湿った草履の匂いがあり、奥の囲炉裏には赤い火が沈んでいました。茶屋の主人が、背を丸めて湯を沸かしています。
「どうされました」
主人は低い声でたずねました。
男は震える手で坂の上を指し、今見た女のことを話しました。顔のない女。白く、何もない顔。雨に濡れていたこと。こちらを見ていたこと。
主人は黙って聞いていました。
湯の沸く音が、しゅうしゅうと細く続きます。外ではまだ雨が降っていました。戸の隙間から入り込む風で、店の灯りが少し暗くなります。
やがて主人は、ゆっくりと口を開きました。
「それは、こんな顔でしたか」
そう言って、主人が顔を上げました。
そこにも、目も鼻も口もありません。
男の叫び声を聞いた者はいなかったといいます。
翌朝、坂道の途中に、男の提灯だけが落ちていました。
怪異の記録
怪異名:のっぺらぼう
話名:灯りの下の白い顔
舞台:雨の降る町はずれの坂道と茶屋
登場するもの:顔のない女、茶屋の主人、提灯、白い指の跡
のっぺらぼうとは
のっぺらぼうは、目・鼻・口のない、平らな顔をした姿で語られる日本の妖怪です。人の姿をして現れ、相手が近づいたところで顔を見せ、驚かせる怪異として知られています。
伝承や説話では、正体が狸・狐・むじななど、人を化かす動物と結びつけられることがあります。また、小泉八雲の「貉」では、顔のない女と、あとから現れる別の人物によって、二重に驚かされる構成がよく知られています。
国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースにも、顔が「のっぺらぼう」である大入道や、狸が化けて人を驚かせたとされる事例が見られます。地域や話型によって、のっぺらぼうそのものとして語られる場合もあれば、化け物の顔の特徴として「のっぺらぼう」と表現される場合もあります。
この話の怖さ
この怪談の怖さは、顔のない女そのものよりも、逃げ込んだ先で同じ異変がもう一度起こるところにあります。坂道の怪異から遠ざかったと思った瞬間、灯りのある場所まで怪異が続いていることに気づかされます。
提灯、茶屋、主人の声。どれも人を安心させるもののはずです。けれど、その安心の中にもうひとつの白い顔が現れることで、男が逃げた先も安全ではなかったと分かります。
この話が残すもの
顔のないものは、表情を読み取らせません。怒っているのか、笑っているのか、ただそこにいるだけなのかも分からない。その分からなさだけが、雨の坂道に残ります。
よくある質問
のっぺらぼうとはどんな妖怪ですか?
のっぺらぼうは、目・鼻・口のない平らな顔をした妖怪として知られています。人の姿で現れ、顔を見せることで相手を驚かせる怪異として語られることがあります。
のっぺらぼうは人を襲う妖怪ですか?
多くの話では、のっぺらぼうは直接人を傷つける存在というより、顔のない姿を見せて人を驚かせる怪異として描かれます。ただし、話によっては強い恐怖や失踪を思わせる結末になることもあります。
のっぺらぼうと貉には関係がありますか?
のっぺらぼうは、貉や狸、狐などが人を化かした姿として語られることがあります。小泉八雲の「貉」でも、顔のない女と、それに続く怪異が印象的に描かれています。



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